自然農とは、「耕さず、肥料・農薬を用いず、草々・虫たちを敵にしない」自然の営みに沿った農のことです。
「耕さなければ土が固くなる。耕さなければ土が痩せてゆく。」という思い込みから始まった「耕す」という行為は、一度始めてしまうと一時的な作業性の良さに惹かれ、そこから抜け出せなくなってしまうようです。
耕さなければ、そこに生えた草やそこで生きた小動物たちが、その場所に亡骸を横たえ、次に生きるものの養分となってゆきます。
耕さなければ、地中深く伸びた草の根が、おおむね半年刻みで朽ち、土の中にたくさんの空洞を作り、空気を送り込み、自然と土を柔らかくしてゆきます。
自然の山々に目を向けると、そこでは一切耕さずとも、毎年膨大な量の有機物が生産されています。
また、何年も耕されていない野原を歩いてみると、足元がとてもふかふかと柔らかいことに気づかされます。
「耕さなくてもよい」ではなく「耕さない方がよい」のです。
田畑に居る生き物たちは、別々に切り離された個別に生きる命ではありません。
それは「一つの命」として見ることができます。
「耕す」という行為は「一つの生命」である田畑を切り刻み、生き物たちの歴史を寸断することになってしまうのです。
「増える営み」である自然界は、他所から何かを持ち込まなくとも、ヒトも含めたその場所に生きる生き物たちだけで、完全な自給自足をすることができます。
それどころか、時間が経過するとともに豊かになってゆきます。
しかしそれには条件があります。
「ヒトが、生命の循環に余計な手出しをしない」という条件です。
農薬を使って、特定の草や小動物、微生物を排除してしまうと、一時的に活動が停滞し、様々な問題を引き起こします。
田畑において不必要な生き物はいないからです。
肥料を用いることも、自然に生きる生き物たちのバランスを崩すことになってしまいます。
肥料を与えた作物は、異様に肥大したバランスの崩れたものとなり、
また、それを食べた人間の体も偏った不健康なものとなってゆきます。
「持ち出さず、持ち込まない」
その原則が、結果として豊かな土壌と健康な作物を育みます。
「草が生えると、お米や野菜が育たない。害虫は、放っておくと作物を食い荒らし、収穫できなくなってしまう。」
確かに、適切な対処の方法を間違えると、せっかく世話をしていた田畑の作物が駄目になってしまうこともあります。
草々は、作物が幼少期に日照を遮ってしまうようであれば、刈ってその場に敷きます。
虫の食害にあったときは、その原因を作物の生育環境の中に見つけ出し改善します。
その作物にとって、養分過多であったり、湿気が多すぎたり等、環境が著しくそぐわない場合虫害が多く発生します。
田畑に住む生命たちに無駄なものはいません。
すべてが絶妙に、美しく繋がり合って生きています。
その神妙な網の目の中に私たちヒトが参加するには、その生命たちをよく見つめなければなりません。
草や虫を敵として見ると、その本質が理解できなくなるのです。
さらに、私たちは田畑で過ごす時間を「食べ物の生産」とするだけでなく「幸せな癒しの時」とするためにも、草や虫を敵とするべきではありません。
草という敵に囲まれ、ウンウンうなりながら作業しても、一時的な達成感はあるかもしれませんが、「生命としての幸せな今」は取り逃がしてしまいます。
自然農とは、作物を生産するための一つの形態です。
しかし、実際にその田畑に立ち、作業をすることによって、「生命の懐かしさ」を思い出します。
「生きる喜び」に触れることができます。
そんな「今」を与えてくれる農が自然農です。